2008年2月22日金曜日

George.Nakahara@gmail.com

我々は20世紀の物質文明に限界を感じている。多くの人が、現状を変えたい、変えなければいけないと思っている。しかし実は、変化というものは求めても求めなくても常に起こっているものである。我々自身も含めて、万物は常に変化しており、それを止めることはできない。人が本能的に欲するのは安定と秩序であるが、秩序そのものもまた変化している。人はものにそれぞれの価値を見出すが、それもまた常に変化している。従って、求められているのは変化ではなく、変化に対する意識である。羅針盤も持たず、目的地も分からず、風に吹かれるまま夜の海を漂う船であってはならない。まず、一人一人が意識を高め己を知らなければならない。己を知らなければ己以外のものを知ることはできない。己を見つめることにより、初めて今置かれている現状や位置を知ることができ、目指すべき方向に向けて舵をとって進むことができるのだ。

しかし、余りにも多くのものに囲まれてしまった我々の意識は、外の世界にのみ向けられている。外の世界に求め続ければ欲望や煩悩は尽きず、穏やかな心にもなれない。ましてや自己を外に求めることはできない。物質文明とはすなわち欧米社会の文明であり、彼らは物質文明からの脱却の術を、次に向かうべき道を知らずにいる。今こそ日本の出番である。意識を内側に向け、自己と向き合う事は、我々日本の、日本人の特性とも言える事である。物質文明という層の下で我々の土壌に眠る我々の本来の姿を発掘せねばならない。発掘とはすなわち、我々の歴史や伝統、芸術文化を探る事である。芸術文化は生活そのものであり、芸術作品は、その時代の人々の生き様、気付き、真実の結晶である。芸術作品のエネルギーを感じ本来の姿に立ち返り自己を見つめることにより、向かうべき道へと進もうではないか。日本の文化の出発点は京都であった。つまり、京都こそがこの発掘作業を行うにふさわしい土壌を有しており、世界をリードし、これからの時代を導いていく使命を担っているのだ。

意識を向上する
何よりも、外の世界から内側の世界に意識を持っていかなければならない。外の世界に意識が常にとらわれている状態では、決してものの本質を見出すことができない。何故なら、ものの本質は目で見分ける物ではなく、心で感じ取るものであるからだ。心の目を磨くことは、己を知ることである。

ものと自分との関連性
自分、即ち心、即ち命は物質世界があるおかげで成り立っている。
空気、水、食べ物や衣服などがなければ人間は生きていけない。我々はこの環境の一部であり、宇宙の法則に従って命が健全と存在しているという事を認識しなければならない。環境に異変が起これば我々自身にも異変が起こり、我々の変化は環境にも変化を引き起こす。個人レベルの健康状態と社会レベルの健康状態は密接に関連している。つまり、我々の魂が健全であってこそ健全な社会は作られるのだ。

ものに対する考え方
生を思うことはすなわち死を思うことである。人は誰しも生まれた瞬間から確実に死へと向かっている。しかし、我々は死の問題と向き合うことを怖れ目を背けており、死の恐怖が現実となって初めて真剣に生と向き合う。
自分の命の大切さを知る人は、自分の命を支える器である身体も大切にする。そのように思う心はその肉体を健全に維持してくれる衣食住にとどまらず、環境全てに対し感謝の念を抱くであろう。自分の命の大切さを思うと同時に、他人の命も同じく大切に思えるようになる。何故なら、命そのものははかなく、全ての命は宇宙の法則に従って環境全体の一部にすぎない事を理解しているからである。

知足(少なく満足する)
禅の教えの一つに知足がある。足ることを知る者は、例え貧しくとも持っているものに感謝の心があるので、心は豊かである。しかし、豊かでも足ることを知らない者は、持っているものに感謝の心がなく、常に外へ求めて病まないので、心は常に貧しく不安である。次から次へと新しいものや便利なものを求めるのではなく、自分に本当に必要なものを感謝の心で大切に使うことが大事である。物質文明を享受している我々は、まさに、豊かでありながら足ることを知らない状態ではないだろうか?


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